障害年金申請用紙 前編

この記事は障害年金の申請にあたって作成した病歴等申立書に記入した文章にブログ向けに幾つか要素を足したものになる。
Twitterのフォロワーや自分が通っている就労支援施設のひとたちが障害年金の申請にあたって病症申立用紙の記入に戸惑っているのを多く見かけたので、参考になればと思い記事を書いている次第だ。
しかしあくまでブログ向けの記事になるので実際に申請する際は医師との相談や病症の取捨選択が大事で、これが模範解答ではない例というのは念頭に置いてほしい。
追記:審査通ったので再公開します

まず記入を開始する時期だが、申請する疾病にかかった時からのものを書かなくてはならないので、我々発達障害者は出生時から現在までのものを書くことになる。
1区切りにつき3〜5年、とあるので出生時から書く場合は幼少期、幼稚園(保育園)、小学校低学年、小学校高学年、中学、高校…と分けていくと良いと感じたのでそうした。
肝心の内容についてだが自分は辛かったことや明らかに他人と違っているであろうことを主に書いた。
身も蓋もないことを言えば自己憐憫に振り切った内容のものを書くことになる。
ただし、
事実と反することはもちろん書いてはいけない。最後に一筆署名があるので事実と反することを書けば何らかのペナルティの可能性がある。やめようね!
あと、手元に残ったメモを元に書いているので時期に関しては多少ズレている可能性があるので参考程度に。

傷病名 ADHD双極性障害

 1(平成7年~平成12年まで 受診していない)
  ○○総合病院にて出生。妊娠42週、4000g。
  出産後母が産後うつに。母の実家で過ごす。
  母の産後うつにより次第に祖父祖母と過ごす時間が長くなる。
  父は海外事業部に勤めており、転勤により家にいない期間が多かった。
  生活面では主に家でビデオを見たり、電車に興味があった。

 2(平成11年~平成14年まで 受診していない)
  三年制の幼稚園に入園。外遊びはあまりせず、室内で工作をしていた。
  落ち着きがなく、転んだりすることが多かった。
  下着・靴下の着用が難しく、小学校入学まで下着類を着用せず過ごす。
  2年目の終わりから父の転勤により父母と3人で海外へ。
  幼稚園3年目は家で過ごす。

 3(平成14年から平成19年まで 受診していない)
  日本人小学校入学。
  着替えが難しく、特に下着類の着用に時間がかかり朝は忙しい日が続いた。
  周りがしている遊びについていけず友達はあまりできなかった。
  学業面では授業中に集中力の無さを注意されることが多く、テストで0点を取ったこともある。
  また、時間割の準備が難しく、時間割は全て母が準備していた。
  小学3年生の春より帰国。
  帰国子女ということもあり一時はいじめにあい、家でゲームをして遊ぶ。
  小学4年より両親の意向で中学受験のために入塾。
  塾でも落ち着きのなさを先生に注意され、宿題を提出できず毎日居残りをしていた。

 4(平成19年から平成23年まで 受診していない)
  小学6年生の春には受験のストレスにより両親との喧嘩が多くなる。
  また、友好関係が人より劣っていることや容姿にコンプレックスを抱くようになる。
  受験は滑り止めに受かるが、受験疲れにより勉強から距離をとるようになり、
  入学してからは成績は常に下位であった。
  両親の意向により親元を離れて寮に住む。部屋の片付けができず、
  時間割も乱雑にしかできず忘れ物が多発。
  宿題の予定がたてられず、提出できない宿題が多数。
  中学3年生頃から対人緊張が強くなる。


以上が中学までの病歴になる。発達障害なので出生時からのものを書かなくてはならず、ポイントとしては

・ことばの出た時期
・人見知りしたか
・人と目があったか
・興味のあったこと
・お友達ができたか
・洋服をちゃんと着れたか

などがポイントとなるらしい。
幼少期のことなどほとんど記憶になく、両親とも仲がよくないので自分の記憶の断片を頼りに書くしかなく、
ポイントの中では「友達ができたか」「洋服を着れたか」しか書けなかった。
なので、代わりに申請する傷病の中に双極性障害があったのでそれに関連のあるような出来事を記入した。
これくらいの量であれば枠内はほぼ埋まると思うので、発達障害ではなく、双極性障害などで申請する人は特に気にしなくとも人と違ったことを羅列すれば文量は足りると思う。

次回からは高校以降のものになるが、発達障害よりは双極性障害に関する出来事を主に記入した。
とりあえず年金の申請で困ってる人の助けになれば良い。

あと、言い忘れたが
医者の診断書と照らし合わせて矛盾のないように書くことが大事なので、医者とのコミュニティケーションが必須である。
自分は現在相性の良い医者を運良く紹介してもらえたので滞りなく相談が進んだが、現在相性が悪いと感じている人は転院を考えてみるのもいいかもしれない。

結局はコミュニケーションで、ぼくらは苦手なコミュニケーションを強いられる道から逃れることはできない…


次回の記事は気分なので出るかもしれないし出ないかもしれない。

上京して4年、はじめての帰省

先週から東京を離れて島根の実家に住んでいる。
入院や引っ越しといったイベントが続くから飼っているネコを預けに来た。

4年前に上京してからは一度も帰省しなかったので久々の故郷だ。
上京するときに改修工事がはじまった広島駅は迷子になるほど立派になっていたし、島根は再開発でとても綺麗なショッピングモールが立ち並んでいる。
特に出雲大社前の神門通りなんかは京都の観光地に勝るとも劣らない綺麗さになっていた。コンビニとか京都仕様のアレだし。

なんだかんだいって故郷に帰ってくるとノスタルジーを感じる。広島には一晩しかいなかったがやっぱり地元のお好み焼きはおいしかった。
島根の実家も叔父夫婦が大規模なリフォームをしていて影も形もないほどオシャレになっていたが空の青さと遠くまで見渡せる景色は気持ちがいい。

田舎はすごい。
裏庭で木を燃やしたり、金槌で打っている自分自身の鼓膜が破れそうになるくらいの音を出しても大丈夫。
みんな車で移動するし何気に自転車通学する学生がたくさんいるというのも東京ではあまり見なかった。
小学生はぼくみたいな昼間から釣竿を背負って錆びまくった自転車を漕いでいる不審者にも元気な挨拶をする。
自転車を漕いでると見知らぬおじさんおばさんに声をかけられ○○くんだよね?大きくなったねェ〜と何故かぼくが帰省していることが近所に知れ渡っている。
これが都会の人間が憧れる田舎の生活か…と思いながらもそれなりに普遍さはある。
コンビニは東京みたいに道を歩いていれば見つかる、という代物ではないし食事もファストフードはショッピングモールが立ち並ぶ地域にしかないので都会の立ち回りをしているとすぐにガス欠になってしまう。


こちらに来てからはしばらく釣りをしている。
自転車なので荷物が少なくて済むエギングをしているがまだ一杯も釣果がない。
昔は釣れない釣りなんて地獄そのものだったがこうして海を楽しむ程度にやる釣りは楽しい。
自転車でウエストバッグと竿を装備して漁港まで通っている。


まとめるとなんだかんだで転地療養になればいいなと思ってたらそんな心配するまでもなく精神は穏やかになっている気がする。
叔父夫婦とはまだ他人行儀な感じはあるが夕飯は主菜副菜一汁ととても充実している。
東京にいてスマホにかじりついていたが今のところはよい生活が送れている。

祖母がなにかとぼくに頼ってはお駄賃をくれるので社会的な承認も得られている。昨日は裏山の畑の金柑の木を剪定した。
土いじりもたまにするぶんには楽しい。


明日も早朝に漁港に行ってエギングをしようと思う。帰るまでにイカ1杯は釣りたい。

性違和とぼく 前編

赤裸々に語るのは一種の自傷かもしれない。もしくは、一種の露出狂か。
そもそも、自分のことをこうして書き起こすという行為自体が、白い目で見られるもので……

性違和。
最近はLGBTのT(トランスジェンダー)としてよく見かけるか。
性同一性障害性自認そのものから違うのに対し、性違和は性自認は生物学的な性別に基づくものの、社会的な役割等を通して違和感を抱くものを言う。(要出典)

 

僕も性違和を持っているものの、やはり未だある社会的な偏見に自身も囚われており大手を振って性違和があるとは言ったことはない。医者にもあまり深くこれについては語ったことがない。
(これについてはある一件から医者をあまり信用していないからなのだが、今回は割愛する。)
つまりここで書き纏めたものが第三者にはじめて公表するもので……
終わってしまった人間が何を隠す必要があるものかという話で。

 

初めて性違和を感じたのは自分の持つ記憶の最下層のほうにある記憶で、だいたい4歳?くらいの話になる。
幼稚園のお遊戯回で桃太郎?(おそらく桃太郎だった)を演じることになった我々は役を振り分けることになった。役は以下の通りだ。

・鬼(先生だったと思う)
・桃太郎(数人)
・猿(数人)
・犬(数人)
・鳥(数人)
・おじいちゃん、おばあちゃん(たくさん)

役決めの方法なのだが、記憶が定かではないが登園順であった気がする。家の立地から徒歩登園だった僕は選択肢がほとんどなくなってしまい、第一希望は鳥(なぜキジではなく鳥だったのか疑問が残るところではあるが、おそらく園児に配慮してわかりやすい表記にしたか、演目がそもそも桃太郎ではなかったかのどちらかだ。)だったが生憎人数が埋まってしまい、残った役はおじいちゃん・おばあちゃんしかない状態だった。

そこで僕はなんの疑いもなくおばあちゃん役を選んだ。おばあちゃん役を選んだ理由は特にない。本当に、自分はこの役が適任だと思って選んだ。
その日、仲の良かった先生に割烹着を着せられながら「本当におばあちゃん役でいいの?」という問いを投げかけられた。

 

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引用 ふみふみこぼくらのへんたい 3巻』

先生の問いかけは当時の僕には実質的には「その役は君には合ってないと思うけど大丈夫?」という問いとして僕の中で変換された。僕は残された二択でしたかった方を選んだつもりであったが、信頼を置く先生曰くどうやらおかしいらしい。
人生初めての社会的な回答だった。僕は数秒悩んだ末、おじいちゃん役を演じることに決めた。

今こうして思い返してみるとただの発育的エラーを自信の考えで直した記念すべき体験であったり、社会性を身につける上でのよくある二択だったのかもしれない。
しかし、エラーはここで修正されなかった。
というよりも、場当たり的に修正しきれるようなものではなかったのだ。

それから小学校へと進学して、男児番組よりも女児番組にハマったり(言わずとしれたカードキャプターさくらのこと。親の転勤先がNHKしか映らず男児番組がほぼなかったのもあるが)、女子に混ざっておままごとをしたり(これはおままごとをしていた旨をクラスの前で発表しドン引きされた経験で修正)、女子の誰がどの男子を好きであったかを男子の中で一番知っていた(これも男子のスパイ扱いをされ修正)等の経験を得て社会的にはかなり男性として振る舞えるように成長していた。
これも、今思えばヒトが社会性を得る中でよくあることだったのかもしれない。
男性/女性という2つの陣営に完全に分かれる中学年あたりには、転校という環境の変化もあって完全に男性陣営の一人として振る舞っていた。

 

このままいけばおそらく『男性』のままだったのだろう。
しかしいくら隠したところでいつか綻びは見えるもので、それは中学進学と同時にやってきた。

 

ayu3c.hatenablog.jp

過去記事の通り、僕は親の意向により『お受験』をした。
結果としては2校受かった。違いとしては、近所の男子校か、田舎の共学校であるかだ。
愚かなことに僕は近所で、小学校の友達が数人進学するからという理由で男子校を選んだ。非常に愚かだ。友達を数人作ることなど、当時の僕にとっては別に何の造作もなかったはずであるのに、たったそれだけのことで以降6年、いや今後の人生を決めてしまった。
蓋を開ければ男子校は典型的な『自称進学校』で、共学校は県内有数の進学校であった。
こればかしは自己責任だ。偏差値等のそういった知識がなかったにしても、自分で選んだことには変わりない。それからの転落人生は上記のとおりだ。

 

かくして予定通り寮へとぶち込まれた僕はそこから数年間12~18歳の男共が跋扈する空間で生活をするわけだが、第二次性徴期を迎える男児にとって男子校という特異な空間が悪影響を与えないわけがなかった。

 

今回は前後編に分けようと思う。特に合理的な理由はなく、僕自信が性違和に語ることについて少し抵抗があるだけである。
ここまで書いておいて申し訳ないが、次は気分次第…という身勝手なものになる。
後編へつづく

 

あ ー 赤裸々な日記 10/1(月) 台風のち晴

せき らら [0] 【赤裸裸】

( 名 ・形動[文] ナリ
からだに何もつけていない・こと(さま)。まるはだか。 「一は衣冠した醜骸で,一は-の醜骸だ/社会百面相 魯庵
包み隠しのない・こと(さま)。あからさま。 「 -な告白」 「 -に言う」

 

 

前回の赤裸々に脚色なしに綴る、という表現は『頭痛が痛い』みたいなとんちんかんな表現であることが判明。
いや、脚色なし(誇張しない)と赤裸々(包み隠さない)ことは競合しないか…?
などといった面倒臭い思考が発生する辺りはやはり厄介なオタクの性であるか…
とにかく、前回の記事が思ったより好評で嬉しかった。承認を得た。
お世辞かもしれない…と思うのはできるだけ考えないようにしたい。とにかく、前回の記事を長かったにも関わらず読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございます。
自分のブログなのだから、自分語りは許されるだろう…と思いつつもやはり匿名文化で培われた習性は根深く、後半の辺りは9割も省略してしまった。
機会があればそこも補填していこうと思う。

赤裸々に語るのは悪いことではなく、美大生であるにも関わらず自己表現で発散ができない落ちぶれとして残された手段である、という自意識は育てていきたい。
未だに性コンプレックスはかなり強く認識していて女性でないメンヘラの自分語りなど需要があるのか……?という不安はある。著名なメンヘラが女性しかいないのがそれを物語っている。
しかしそこで折れてしまっては我々のようなメンヘラの運命は変わらないし、少しでも現状に加油できればと思う。

酒缶を数本開けて酔った勢いでしかこういった文をかけないことも、今後の課題だ。

 

ayu3c.hatenablog.jp

 

実は空気人形のアカウントはネット・アカウントの皮を被ったリアル・アカウントだ。
メンヘラ故のメンヘラ・ムーブでリアルとの繋がりは殆ど断ち切られたが……

鍵をかけていてもTwitterに紐づけしたここのURLは見えるし、リアルの人間にも見えるのでそういった配慮を考えてた頃もあったが、赤裸々に綴るのでこれらも無しだ。
僕は所謂『無敵の人』と化したので社会的評価が落ちようとかつての人脈は無いに等しいし、恥をかなぐり捨てて日記を書こう。
彼らが『敵視した人間はブロックしても監視し続け、その不幸や無様な姿を嗤う』という生態を僕に適用していなければ無関係の話ではあるが。(不穏ペナルティ1)

 

TLを追っている人はもう既に知っているかもしれないが、僕は某美大の4回生だ。
Twitterの登録日を見れば2015年4月なのでこれがリアル・アカウントである証明にもなる。
(また、アカウントはこれしか所持していないので『安らぎ・穏やか』を名乗りながら陰で陰口を放ちまくっているという心配もしなくてもよい、穏やか・アカウントだ。)
4回生ではあるが、現在2回留年していて、学年は2年生だ。(回生という表現がとても便利で有り難い)
それに加えて今年も1年丸々休学しているので3留が決定している。
高校の出席日数が足りず高校を半期遅れで卒業した影響もあり相当な遅れになる。

僕みたいな落ちこぼれが国立大学に入れるわけもなく、(というか国立美大は片手の指で数えられる程しかない)私立美大の学費は膨大だ。作品の材料費はもちろん自費になる。
金さえかければ愛情はかけなくとも良いだろうという両親の方針によって中学から一人暮らしをしてきたが、はっきり言って僕の実家は太くはないし唯一の稼ぎ役である父は定年を迎え大学を幸いにも卒業できたとしても実家がパンクするのは目に見えている。

 


ここまで読んで『お前は恵まれている』と思った人は何人もいるだろう。
バイトもせず親の援助で暮らしているのだから、恵まれている。
人見知りであるのにも関わらず接客業をし、血反吐を吐きながら、クレームを処理し、パワハラを避け、睡眠時間を削り、好きでもない異性の好意を処理し、学費や家賃、光熱費を稼いでいる人間は何人も見てきた。
彼らは僕のことを一律に恵まれている、親に感謝しろと言う。確かにそのとおりなのだろう。生まれによる優越は、確かに存在する。僕が性違和や愛着障害を感じると同じように、彼らも僕に対して同じような気持ちを抱いているのだ。


そのような目で見てきたのは個人だけではない。社会も同じような目を向けてきた。
高い学費を安くするためにまずは専門学校への再入学を考えた。
弊学の学費が年間約160万円(+材料費)であるから、専門学校に入れば大抵の場合学費が節約できるからだ。
自分ができることを考えたときにまず浮かんだのが調理師への道だった。
調理師は年収は安いが就職倍率は100%を越えている。ニートのまま過ごすよりかは悪くはない。職歴をつけるという目的もあり、早速調理師学校の体験授業を何校か受けた。
やはり向けられたのは年齢と、社会経験の低さであった。
曰く、「専門学校は基本的な知識、技能を徹底的に身につけるものであって、働いて食っていくというだけであればこの分野なら実際に働いて、スキルを身につけるほうが早い。そりゃ、学校としては入学してほしいけど、これは人間的な話だから……」と。
専門学校OBの利益不利益を除いた率直な気持ちだった。
彼の言葉と目には、僕の生まれを羨む形で批判してきた彼らと同じ色を孕んでいた。


僕の生まれ年は新卒1年生と同じ年齢、1995年生だ。
それより遅れた人間は正当な理由がない限り、人生の落伍者、怠け者、無能である。
心の弱さは自己責任だ。それに加え、職歴もないのだから擁護のしようがない。
今から身体の中身を入れ替えて大学を卒業しても、卒業するのは2022年だ。
26歳の何の実績もないメンヘラにまともな職が就くだろうか。就くわけがない。

 

 

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引用 石田スイ『東京喰種トーキョーグール7巻』


“この世のすべての不利益は「当人の能力不足」で説明がつく”

精神疾患者は他者の目には『不可視な事情』なのである。
透明な存在。社会的弱者なら精神疾患者でなくとも一度は感じたことがあるだろう。
関与も問題にもされず、考慮されない存在。
 
健常者にとって精神障害者とは、『疑うまでもない明確な障害』と認知できる身体障害者知的障害者に便乗して障害者面をする、厚かましい人種なのである。

 

また、SNSにおいて度々メンヘラ達のメンヘラ度大会が開催されているのを見ても分かる。
SNSで彼らのクラスタの渦中にいれば、メンヘラ達がいかに己が不幸であるか、自身よりも恵まれた人間の不幸アピールをdisっている様子を見られるだろう。
かくいう僕も、自身より明らかに恵まれている、羨ましい存在がメンヘラツイートしているのを見て「こいつはFAKEだ」と感じたことは枚挙にいとまがない。赤裸々に言えば現在進行形でも自身よりも恵まれているな、と思う人間がメンヘラ芸をしていると穏やかな気持ちが揺らいでしまう。
しかし、彼らは一歩間違えれば弱者のアイデンティティを剥奪されて健常者の最下位層に位置づけられるのを恐れる、哀れな存在なのだ。それを忘れてはいけない。



自立しなければならない。
モラトリアムはとうに過ぎ、我々は己の力で食い扶持を勝ち取らなければならない。

学歴には深く根強い、洗脳に近い先入観があった。
自称進学校OB教師陣による偏差値信仰。親の大卒信仰。ネットの学歴信仰。
社会的な環境、コミュニケーション能力は抜きにしても最終学歴高卒の人間が5割弱であるという現実を他所に僕の中での学歴への執着はかのS氏(上記記事参照)への執着にも勝るにも劣らないほどの執着があった。

 

そんな思いが、胸を掠めては、消えた。

 

美大界隈では滑り止めに値する学歴。
予備校時代に燃えていた夢への情熱は界隈の人脈偏重の現実と自身の怠け癖の前にかき消され、専攻の成績と反比例するように伸びていく座学の成績。
このまま在籍しても高い学費を払い続け、企業の目にとまるような作品を、ポートフォリオに載せるようなものを作れないまま卒業するのは目に見えていた。


大学に、大卒に、人間関係に、希望を見出す精神疾患者はかくも愚かだったのだ。

精神疾患者は精神疾患者でしかない。努力で補えるものではなく、境界例は人間関係に、発達障害は制作スケジュールに、社会不安障害はグループワークに、それぞれ希望の芽を潰されあるべきところへ堕ちていく。

 


そうして僕は退学の道を選んだ。
死ぬよりかはマシか。そのような考えを拾ってくれる団体が居ないことから目を背けつつ、かつての級友が僕を嘲笑う姿を思い浮かべながら。

 


真の弱者にもなれず、弱者の中の強者にもなれず、男でも女でもない性に板挟みにされ、自死することも叶わずこの記事を書いている。

 

 

壊れたときの思い出

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この記事はもともと書いていた自分語りの一部分を抜粋したものです。
期間的には中高生の頃の話になります。
それ以前のものは自己憐憫まみれで楽しくないと思うので切り取ってあります。
切り取った都合上それ以前について説明不足な点がありますがご想像にお任せします
─────

メンヘラになるきっかけはどんななり方にしても各人にとっては忘れられない記憶で……
正直ひとに言えないようなこともたくさんあるけれど、脚色なしで赤裸々に綴ったので拙い文ですが楽しんで貰えればなと……



幼少期はあまり親と過ごせなかった。
父は転勤族で、母は望んで産んだわけではない、世間体のために産まされたんだと僕に向かって常に愚痴を吐いていた。
両親と過ごしたかったけど、祖父母に世話をされていた記憶のほうが多かった。
ようは典型的なメンヘラの種へ育てられた。


両親は僕を手元から離すために寮のある学校を受験させることに。
受験勉強で勉強嫌いになっても合格しなければ祖父母の田舎へ送還すると脅迫され、「合格すれば人生うまくいく」と無理矢理受験させられた。
合格して寮へ入った僕は土日だけ家へ帰れるのを利用して受験の反動でインターネットやゲームにのめり込むようになった。


インターネットに潜るときはニコニコ、2chTwitterが主な居場所だった。
2008年当時東方Projectにハマっていた自分はリアルで東方Projectを語れる人間が居なかった分よけいにのめり込み、東方Projectのファンコミュニティで過ごしていた。
そこから人脈の雪だるまが始まりTwitterが最終的な居場所になった。


当時は中学生というと2chであれニコニコであれ「リア厨(リアル中坊)」などと叩かれコミュニティから叩き出されるという風潮が強く、必死に年齢を隠し「大学生」ということでらしく振る舞っていた。
中学生を自称しても叩かれず、むしろ有難がられる今日の中学生が羨ましいが、いい思い出だったと思う。
(思えばこの自己を押さえつけて相手の出方を伺いつつ演技していた日々がコミュニケーション障害になるきっかけだったのかもしれない)


そこのコミュニティに紅一点が居た。
彼女(以下Kさん)はユーモアに長け、独特の雰囲気でそれだけでも求心力を持っており、
女性であることをカミングアウトしてからコミュニティ内での人気は盤石になり、所謂オタサーの姫のような扱いになっていた。


今ではわざわざ女性であることをカミングアウトするような人間はまずネカマを疑われるのがオチだろうが、当時の僕は中学生で疑う心はなかったし、スマホ普及前のインターネット、オタクジャンルの男女比はもちろんオタク側も免疫がなかったのだ。
ネカマと疑ったオタクも、ネカマだと騒ぐような無粋な真似はせず静観していただけかもしれない)


Kさんは常に彼女だと分かる記号を付与して発言していた。
所謂
「半コテ(半分固定ハンドルネーム)」
である。
匿名文化においてコテハン・半コテは忌避されるものであったが、彼女は自治が厳しかったにも関わらずそのような特権を得ていた。
Kさんはまるで蝶のように捉えようのない受け答えで、乙女らしさを感じさせる、自分が勝手に感じていただけかもしれないが安らぎを得られるような言葉遣いだった。彼女の半コテの印である小文字がそれを一層強調させていた。
ネタ振りの秀逸さも、オタクとしての知識もあった。彼女がいると場が華やかであったし、話が弾んだ。
勿論僕もそんな彼女の雰囲気、言葉遣いの虜になっていた。まだ初心であった僕は恋愛感情というものを抱いておらず、人気者であったKさんと、彼女がレスポンスしてくれる心地良さを純粋に味わっていただけだった。もしくは高嶺の花という認識だったか。


ほどなくしてKさんは忽然と消えた。別れの言葉もないままにコミュニティに現れなくなり、Twitterアカウントも消えた。
インターネットではよくある話である。
しかし有象無象のオタクならまだしも、あのKさんが消えたのだ。
表立って騒ぐオタクは居なくともKさんがどこへ消えたのか、何かあったのかと心配する声が相次いだ。僕の知らないところで彼女の行方を必死に探すオタクも居ただろう。
Kさんが消えて数カ月経っても彼女がどこへ行ったのか心配する声は絶えなかった。
しかし、彼女は戻ってこなかった。
彼女はオタクたちの心を奪い、絶頂期のうちに消えたのだ。すべてが完璧だった。人心掌握とはこのことだ。
僕は消えたKさんを残念に思いつつも他のオタクのように深追いすることはなかった。その時は……


Kさんが消えてから1,2年ほどだろうか、高校生になった僕はメンヘラの種が発芽していた。
男子校故の女子禁制の空間と、男子校における女子ロールに心地良さを抱いた性違和、寮内での拘束、心を打ち明けられる存在の不在、承認の不足などが原因だった。
やり手の生徒が女子校など他校へのパイプを作ったりして女子との交流がなかったわけではないが、仲間内でも顔の良くない扱いを受けていたりしてコンプレックスも爆発していた。
幼少期に仕込まれた種が発芽していた。


一方ネットではかつて栄えていたコミュニティも過疎ってしまい、僕はそこから派生したTwitterクラスタに入り浸っていた。高校生になって念願の携帯も契約してもらえたので隠れて携帯に齧り付いていた。
そのクラスタではかつてのオタクコミュニティとは打って変わって様々な人間がいた。
オタクの残党やクラスタの長老、どういう繋がりか不明な女子高生達、アル中の大学生達など一見纏まりのない人たちだった。
肩書きのまとまりはなかったが皆仲が良く、毎日のようにグループ通話をしていた。
勿論、そこにもKさんの姿はなかった。


メンヘラの芽は順調に育っていたがある日、クラスタのSという人物と相互になった。彼は相互になるとすぐにフレンドリーな様子で距離を詰めてきた。
相互になって数日経った頃、彼とチャットしているとどういう経緯でフォローしたのかという話題になった。
そこでSの口からは

「私はKさんだよ。だった、というか」

という答えが。
久しぶりに聞くKさんの名前に僕は混乱した。
Kさんが消えてから僕の中でKさんの思い出は美化され、いつしか彼女は僕の中で絶対的な存在となっていた。

僕は必死にモニターに齧り付いてSに質問攻めをした。
ちゃんと質問攻めできていかすら曖昧だった。オタク達の人気を攫って忽然と消えたKさんが僕と話している!

彼はKさんとは共有アカウントでKさんを動かしていたこと、Kさんと面識があることを明言し、Kさんの行方やSの性別、年齢ははぐらかした。
勿論、成り済ましや嘘かもしれない可能性はあったが話のディティールが細かくて説得力があった。
何より、久々に聞いたKさんの名前や美化されたKさんの思い出のパワーが強すぎてそんな些細なことなど何も気にならなかった。

その日チャットの終わり際になぜ僕にそんなことを教えるのか、と訪ねたらSはただ一言

「好きだから」

と答えてメールアドレスを添えて落ちた。
僕は完全にSに心を奪われていた。


Sは厳密ではKさんではない。Kさんの中身にKさんとSがいて、僕が好きだったのはKさんのほうであってSは紛い物だ。いや、SもKさんの一部でありKさんを演じきれていたならKさんであるし、本物だ。性別は?はぐらかしたということは男性だろうか。Kさんとアカウントを共有し、キャラクターを設定してまで手の凝んだことをするS自体がそもそもKさんと親しい仲でありつまりは恋敵ではないのか?Kさんの行方をはぐらかす理由は?KさんがSを名乗っているだけでは?

頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱され、日をまたいでもずっとSのことを考えていた。
頭の混乱が収まってもSへの関心は消えなかったし、彼の言葉がずっと反芻されていた。
日直日誌にSのことを書いたのを今でも覚えている。そのときはまるで教祖を信奉する信者のようなことを書いたが実際は、幼稚園のときの仲の良かった女の子とか、クラスの話題に入るときにとりあえず決めた好きな人とか、そういうのとは比べ物にならない、初恋だった。


Sとメールをやりとりしているとき、彼は質問に関してはちゃんとした返答をしてはくれずほとんどが空を掴むような答えだった。
捉えどころのないような雰囲気と相手を乗せる能力はKさんを彷彿とさせたし、偽物であるかもしれかいという考えは消え去っていた。

事あるごとにSは僕を慰め、肯定した。承認や愛を十分に得られずに生きてきた僕はSの言葉に骨抜きにされていた。

数日経つとSは突然塩対応になった。
Twitterでも塩対応で他のフォロワーと明らかに対応が違っていた。
好きじゃなくなったのかな?と問うと特に気持ちは変わっておらず、好きだという。
Sの「好き」を額面通りに受け取ることしかできなかった僕はSの言葉と対応の差異に苦しんだ。
塩対応といっても距離を離したがってるような感じではなく、こちらが返事をしないと追加でメールを送ってくる程でもあった。しかし塩対応。
そのときの僕の目には他の人と仲良くする様を見せつけて嫉妬心を煽っているようにしか見えなかった、というかそれが狙いだったのだろう。

嫉妬心はSへの恋心を妨げるどころか雪崩のようにSへの恋心に変換された。変換されたというよりもSに対する感情は全て恋心であるという認識しかできなくなっていた。歪んだ恋だった。

言行不一致のおかしな対応に怒りを表して追及しても、彼は
「私は平等に皆と接しているよ」
と答えた。どう見ても平等には扱ってもらえてないのに、Sの平等という言葉がとても無慈悲なものに聞こえた。
平等なのに平等に扱われていない矛盾に苦しめられ、僕は更にSに深く執着するようになった。

Sの塩対応が数日続き、たまにデレてまた塩に戻る日々が続いた。完全に弄ばれていた。弄ばれていることを自覚しながらもSから離れることはできなかった。塩対応の裏でSは他の人にはとても愛想良く接していた。それがたまらなく羨ましく盲目的にずっとそれを求めた。NTR性癖が目覚めたのもこの頃だったと思う。苦しんでいたが同時に快感で震えていた。
焦らしのバリエーションは塩対応だけではなかった。ある日突然メールの返信もTwitterの止まったかと思いきや一週間以上音信不通になったこともある。そのときはパニックになってしまい生きた心地がしなかった。

そのような日々が続きいつの間にか僕は完全にメンヘラと化していて、ボーダーも発症し嫌がるSを拘束して自分のものにすることしか考えられなくなった。
こうなってもSは僕の劣情をそそることはやめなかった。メールを送らない日が開くとSのほうからメールを送ってきた。
歪んだ恋心が暴走したのもあるが、好きな人間をどう愛したらいいかという根本的なことすらわからかった。
親に世間体の道具として扱われたようにどうしても道具のように一方的に愛してしまうような感じになったし、寛解したときもこれだけはどうにもならなかった。恐らく今もそうだ。

リアルの僕は完全に崩壊し、夏前には不登校になっていた。
不登校になってからは凄惨なメンヘラバトルを繰り広げた。メンヘラの花は満開だった。詳細はわざわざ書く必要はないだろう。皆が見慣れている、いつものメンヘラの姿だ。
最終的にはSに対する殺意と恋慕を辺り一面にばら撒いて僕が自爆する形で一旦収束となった。


収束した後、垢転生を繰り返し別人を装ってSに近づいたりもした。
転生だとバレないように予め人脈を作る過程でSへの激情は薄くなっていった。思わぬ副作用だった。
それでもSに対する執着は変わらなかったし、何よりも驚くべきなのはこうなってもSは僕のメールに返信し続けたことである。

転生してからは比較的穏やかに、S以外の人とも関わるようになっていた。
そんな中でSが女性とオフをしていて援助交際まがいのことをしていたと知った時は平等が聞いて呆れるとまた激情が燃え上がろうともしたが、昔のように激情に耐えられる心も身体も残ってはいなかった。ただ、静かに自分の性を呪って終わった。

その後もSにメンヘラメールや質問攻めを送りながら僕は通信制高校へ転入し、受験に向けて予備校へ通った。
予備校期には心に残った後遺症のことや予備校自体が苦しく、Sのことを考える余裕もあまりなくなり、メールも送らなくなっていた。
それでもちょっかいを出してくるのがSだ。送らないと送ってくる。


結局、Kさんのことはわからずじまいで終わってしまった。SがKさんだったのか、そもそもKさんとは無関係だったのか。


今でもSから稀にメールが送られてくる。
質問には答えてくれない。

日々のつらさ

目覚めたらまだ自分が生きていることが辛くなる。
次にやるべきことへの焦燥感、社会に認められない疎外感に襲われる。

鏡の前に立てば醜い自分の姿を引き裂きたくなる。
自己肯定感はこれっぽっちもなく、孤独感には骨の髄まで侵されてしまった。

どんなに辛くても救えるのは自分しかいない。
自分でなんとかするしかない…
詰んでいる事実から目を背けているだけでは…

消えたいというきもち

体重が減らない。昔なら2週間もすれば5キロは減っていたのに、同じようにしていても2キロしか減らなかった。
老いだろうか。

老い
自分より年上の人間からしたら若者の年寄りアピールに聞こえるかもしれないが、今年で23と考えたときにもう若くないな……という感情が真っ先にやってくる。
社会的にはもう社会人になっている年齢なのに社会復帰できていない幼さとのギャップもある。
職無しメンヘラにとって23という年齢はもう若くないのだ。
どこへ行っても肩身は狭いし、容姿が良いわけでもない。コミュニケーション能力は言わずもがな。
価値のない人間。利用価値が一切ない人間。

信頼できる人はいない。価値のない人間に寄り付く人間はいないのは当たり前だ。
自分の生まれの場合、とにかく自立しなければ何も始まらなく、いち人間として扱ってもらうことすら叶わない。

どこで間違えたのか、というお決まりの問いはするだけ無駄だ。とにかく、生まれたこと自体が間違いだったのだ。
望んで生まれたわけではないが、責任は自分が取らないといけないらしい。

自分がなにを望んでいてどうすれば自分を救うことができるかすらも分からなくなってしまった。
消えたいというきもちだけははっきりと分かる。